「他力を聞く 」令和元年9月の法話
【担 当】 新美和彦 師 〔愛知県蒲郡市 玉泉院 名誉住職〕
【御 題】 「他力を聞く 」
松尾芭蕉が山形県の立石寺で詠んだこの句は、『おくのほそ道』の中で大きな意義を持っていると言われます。訳してみますと、「何たる閑かさだ、蝉が岩にしみ入るやうに鳴いてゐる」でしょうか。
しかし、蝉が鳴いているのであれば、閑か(しずか)というよりはやかましいのではないか?と、そんな疑問も浮かびます。蝉が岩にしみいるように鳴いているのなら「何たる閑かさ」どころか、「何たるやかましさ」ではないか。
今、この原稿を書いている寺の庭では、けたたましく蝉が鳴いています。まさに 「 喧(やかま)しさや岩にこだます蝉の声」 であります。やかましいにもかかわらず芭蕉が「閑かさや」とおいたのは、この「閑かさ」が蝉の鳴きしきる現実の世界とは別の次元の「閑かさ」だからです。
「閑かさ」は心の中の「閑かさ」であることがわかります。芭蕉が山寺・立石寺の五大堂に立って見渡せば、眼下に広がる緑の大地と梅雨明けの大空がはてしなくつづいています。そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる、あたりの美しい景色は、ただひっそりと静まりかえった「閑かさ」と感じとったのです。
このように「閑かさ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地、いいかえると大自然の「閑かさ」なのです。
法然上人さまのお歌に、「月影の いたらぬ里は なけれども 眺むる人の 心にぞすむ」がございます。月の光が届かない人里などないのですが、月を眺める人の心の中にこそ月の影は、はっきりと存在してくるのです。 月の光は阿弥陀さまの救いのことで、 その光が届かない里はなく、すべての里に届いているのです。
阿弥陀さまのすべての人を漏らさず救うという本願のお誓いは、月の光のように誰にもどんな里にも平等にふり注いでいます。しかし、そのみ光を合掌し、念仏する人にのみ、月の光の真実他力の存在が分かるのです。
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
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