布教師会会長 挨拶
今、世の中を見渡すと、アメリカン・ファーストをはじめとする自己中の強欲だけで進んでいるように感じます。我々誰もが行き先を見失っている状態に思えます。また、自分さえ良ければよいという考えは年々エスカレートし、他人を思いやる心もなく自分の都合だけを押し通し、何をやっても、やってしまったもの勝ちだという風潮まで見えます。大人からしてこれですから、子供に模範も示せません。
人間全体が悪業の積み重ねを続けています。
今まさに法然上人に学び、阿弥陀仏の本願を頂く以外進む道はありません。そのことをひたすら伝え響かせていくことこそが布教師会の役割であり、お念仏を相続していく人々の輪を広げていくことが責務であると実感します。そのためにも、ご本願・真実他力を丁寧に説き明かし、後生を決定して今こそ念仏で生きることを精力的に伝えて参りたいと思います。
「信じる者は救われる」という言葉があります。阿弥陀さまは、私たち衆生を救う為に仏となられました。、私たちはその阿弥陀さまのお救いを信じ「南無阿弥陀仏」とお念仏を唱えるだけでいい。一見何の問題もないようにみえます。しかし問題は、「信じるということ」です。阿弥陀さまは「信じるということ」を私たちの方の信仰の課題とされたのでしょうか?
いいえ、阿弥陀さまは「信じるということ」を私たちの救われる条件とされていません。「信じなければ救われない」とおっしゃらないのです。
それでは、「信じるということ」はどういうことなのでしょうか?
それは、阿弥陀さまを「自力のこころ」で信じようと力むことではありません。つまり、阿弥陀さまに救われようと必死に「つかまる」ことではないのです。このことで私が若い頃、ある老僧が、私に「あなた、信じ切ることが出来ますか?」と言われて ハッとしたことを覚えています。例えば、母猫が子猫を移動させようとしているところを想像してください。母猫は子猫の首根っこを甘噛みし、子猫の思いに関係なく連れて行きます。子猫はつかまろうと力むことなく、ただ母猫に身をまかせているのです。もちろん、子猫には置いていかれる不安も疑いもありません。
「信じるということ」は、子猫のように「つかまれる」ことだと言えます。私が信じるから救われるのではなく、阿弥陀さまが必ず助かると信じてくださっているから、私たちは救われるのです。救われる根拠は、私の信じる力にはありません。阿弥陀さまが助かると私を信じてくださっている安心の心が私に映る(移る)こと、その安心の心が信心なのです。法然上人さまは、「念仏すれば願力に乗ずるなり」と言われました。
それでは、「信じるということ」はどういうことなのでしょうか?
これこそ他力の信なのです。
「南無」とは、「どうぞお願いします」「すべてお任せいたします」ということです。まさに、自らが愚痴にかえり、往生を願う心を育てていくことで、念仏の一声一声となっていくのだと思います。
どうぞ、これからも浄土宗西山深草派布教師会の法話をご参考にして頂いて、念仏の声を響かせて心安らかな人生として参りましょう。
浄土宗西山深草派布教師会会長 新美 和彦