説法師子吼/令和6年1月の法話/お説教の詳細ページ/浄土宗西山深草派布教師会

浄土宗西山深草派 総本山誓願寺


 

 


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説法師子吼/令和6年1月の法話


説法師子吼/令和6年1月の法話の画像1
【担 当】 田中宗龍 師 〔愛知県西尾市 阿弥陀院 住職〕
【御 題】 「説法師子吼(せっぽうししく)」

 


 

 


 

 

昭和十五年二月号の『信仰之友』第三九五号に、「獅子吼」と題して次の話が載っています。

「昔、ある男が山に入って獅子の赤子を獲て帰り、山羊の哺乳で育てていた。獅子の子は山羊を母親と思って馴れていたが、一夜うす霧の中に月輝く時、森の奥から一声、高らかな大獅子の叫びを聞いた。すると獅子の子はそれに答へるように一声高く吼へると一散に馳せて森の親獅子の所へ帰ったのである。

佛の宝座を獅子座と言い、佛の説法を獅子吼という。獅子は、獣中の王として無畏性を示す。佛は人中の獅子王である。
我々は、かの子獅子が、向うの山の親獅子の叫びを聞いて共鳴した様に、佛の獅子吼を聞いて能くその呼び声に応じ真に共嗚したとき最後の大自覚は我等の心に生ずるのである」。

物心つかぬ子獅子は、眼前の乳をくれる優しい山羊を母と信じ、自らも山羊の子であることに疑いは無かったのです。しかし、ある夜、向こうの山から聞こえた大獅子の咆吼に心中の獅子としての真性が喚起されて共鳴し、それを自覚して本来に還ったというお話です。

「獅子吼」とは、阿弥陀さまの説法を喩えています。自覚無き子獅子に獅子としての真性を喚び起し共鳴させる力のことです。我等凡夫にとって、阿弥陀さまの説法「師子吼」によって喚起される真性とは何であり、また共鳴するとはどのようなことでしょうか。

そこで、我等凡夫の真性を憶うに、我等を我等たらしめるものは何であるかということですが、それは人格や性格といったものではなく、まして性別や年齢・容姿というものでもなく、はたまた思考や行動、さらには信仰や思想というものではありません。それ以前に、この生命が無ければ、先挙したものはありえません。この生命こそが、我等を我等たらしめる真性の本源なのです。この生命のいとなみ自体が、阿弥陀さまの「師子吼」によって喚起され共鳴する我等凡夫の真性なのです。この生命を阿弥陀さまとしてこの身に頂き、我等と阿弥陀さまが一体となったその姿が、南無阿弥陀佛の名号であり、表出する共鳴の声なのです。

西山上人は次のようにお示し下さっておられます。

「南無は迷ひの衆生の体なり。正しく悟りと云ふは阿彌陀佛の体なり。この二つが一つになりたる所を佛については正覚と云ひ、凡夫については往生と云ふなり。この謂れを心得たるを三心とも、帰命とも、南無とも、発願とも、帰依とも、正念とも、菩提心とも数多に申すなり。よくよく心得べきなり。かく心得たる所がやがて名号にてあるなり。必ずしも口に稱へたるばかりが名号にてなきなり。念声一体とはこれにてあるなり」。
 我等凡夫は、それぞれ阿弥陀さまを頂いて生きている、そのことをしっかりと自覚することが阿弥陀さまの「師子吼」に共鳴することなのです。阿弥陀さまと一緒にお釈迦さまの教えに則ってこの生命を全うすることが、念仏の日暮しなのです。

 

 

このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。


法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。

この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)


 


 

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