念仏する処は海人漁人の宿までも我が遺跡なり/令和2年10月
【担 当】 足立昇龍 師 〔愛知県岡崎市 称名寺 住職〕
【御 題】 「念仏する処は、海人(あま)漁人(すなどり)の宿までも 我が遺跡なり」
今年の3月に、私が 建築の仕事として働いていた時の、もう亡くなって9年経つ上司の夢を見ました。何気ない日常の一コマでありました。その半年後、9月の祥月命日の供養の折、奥様から「そろそろ、主人のお骨を お寺での供養としてお願い致します」と、長い月日を故人のお骨と共に過ごされていました奥様から お願いされました。お墓には入らず、ロッカー式のお寺の供養壇へ入りました。
遺された奥様と 成人されたお子様は こちらに住まわれ、故人の兄弟親族全員が東京に居て、お墓は神奈川よりの静岡県にあり、せめて傍に居たいという 思いからでありました。
私どもは亡くなった方の事を思う時、その対象が仏壇のお位牌であったり、お骨を収めたお墓であったり、お寺に来て本尊さまに廻向するなど、「佛さま、ご先祖さま」と手を合わせます。
では念仏とは、いつ、どのように、することが良いことでしょうか?
『法然上人48巻伝』の37巻に、法然さまが、晩年 病床に臥せられた時の事が書かれてあります。
お弟子の言葉に「法然さま、古くより立派なお坊さまは、遺される者の為に 寺院を建てています。しかし、法然さまは一つのお堂もお寺も建てられていません。法然さまが入滅されてからは、どのようにすれば良いでしょうか?」
法然さまは 答えます。「一つのお寺として決めるべきでは無い。私が、念仏して回った場所すべてが、大切な場所である。立派である必要も無い、どんな業を持った人の家であっても、全てが 大切な念佛の場所である。」
私のお寺にも、阿弥陀さまが居られます。一つのお寺が存在しています。しかし、法然さまは、念仏するのに わざわざ お寺は必要ないとお示しくだされました。その心があれば良いと。
さらに 法然さまは、「念仏に助けはいらない」とも、言っています。戒律をたもつこと。慈悲の心。すべてが、念仏を補助することであり、善人は善人のまま、悪人は悪人のままで良いとしています。
念仏は、いつ、どんな場所でも構わないのです。
あなた自身の言葉で 念仏申しましょう。
合掌
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
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