平成27年5月の法話/櫻間観洲師
【担 当】 櫻間観洲 師 〔愛知県蒲郡市 利生院 住職〕
【御 題】 「佛心とは大慈悲これなり」
佛さまの心とは慈悲の心です。慈悲は愛ということなのですが、佛教では愛を二つに分けます。一つは渇愛、もう一つは慈悲です。
渇愛は私たち凡人の男女の愛を指します。人間は渇愛の生き物です。文字通り渇く愛です。喉が渇いたら水を飲みたくなる。もっと、もっといくらでも飲みたい「もっともっと」と求める愛。私が相手を10愛しているとすれば相手からは20の愛を返してもらいたい。もっと私を大事にしてほしい、もっと私を見つめてほしい、際限なく思うのが私たち人間の愛でしょう。渇愛とは、お返しを期待する愛です。
それに対して、慈悲は決して変わらない大きな愛情で相手からのお返しを期待しない愛です。慈悲の慈は与楽で誰とでも仲良くしてお友達になろうという気持ちです。慈悲の悲は抜苦といい他人の悲しみに涙する、やさしさ、思いやりでしょう。
今、高齢化社会になって「痴呆症」の老人が増えてきました。その行動の一つとして、徘徊があります。知らぬ間に外へ出て歩き回り家に帰れなくなったり、警察に保護されたり、交通事故にまき込まれたりします。こういう老人を抱える家族のご苦労は並大抵のことではないと思います。テレビで紹介された痴呆症専門のある施設ですが、ここの介護士のお方は老人が外に出ると必ず後ろから付いて行き、老人と話しながら一緒に歩くのです。すると老人は満足して施設に戻り、やがて徘徊しなくなったそうです。介護士の慈悲の心で病状も徐々に良くなるでしょう。
あってはならないことですが、中には部屋に閉じ込めたり、ベッドにくくりつけたりすると聞きますが、痴呆老人といえども人格をもったひとりの人間で名誉心もあり、粗大ゴミのような扱いをするのは間違っています。
大切なことは、老人の立場になってその気持ちを出来るだけ理解しようと努めること、慈悲の心を持って看護したいものです。
小説「塀の中の懲りない面々」で有名な、安部譲二さんの話です。安部さんは若い頃に刑務所に入った時、母が面会に来ました。安部さんは親不孝した事を素直に詫びましたが、これに対して母はこう言いました。「お前が刑務所に入ったおかげで私はあまり人が見られない刑務所の中を見ることが出来たよ」と。安部さんはこの母の言葉について後にこう述べています。「あの母の言葉が自分を救ってくれた。あの時、きつく叱られていたら、きっと、立ち直れなかった、あれ以来、早く刑務所を出ようと努力しました」と。安部さんは母親の一言によって、その後の人生が変わったのです。その一言は慈悲の言葉でした。
苦しい渇愛地獄から抜けだして、あけっぱなしの慈悲を行ないましょう。佛はあらゆる人々に対して差別なく慈悲を施せと教えています。念佛を頂きながら大勢の人と平等の気持ちで仲良く接しましょう。
十念
このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。
法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。
この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)
前へ
次へ
前の画面に戻る
facebook area