善人なおもて往生す、いわんや悪人をや/令和6年6月の法話/お説教の詳細ページ/浄土宗西山深草派布教師会

浄土宗西山深草派 総本山誓願寺


 

 


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善人なおもて往生す、いわんや悪人をや/令和6年6月の法話


善人なおもて往生す、いわんや悪人をや/令和6年6月の法話の画像1
【担 当】 半田了靖 師 〔愛知県岡崎市 崇福寺 住職〕
【御 題】 「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」

 


 

 


 

 

『善人なおもて往生す、いわんや悪人をや』(※「法然上人伝記(醍醐本)」善人尚以往生況悪人乎)
これを『悪人正機説』といいます。

学校の日本史の教科書に載っていて、テストにも出たりしますので、聞いたことがある方もみえるのではないでしょうか? 私たち浄土宗を開かれた法然上人のお言葉です。この教えをそのまま訳しますと『善人でも極楽に行くことができるのですから、悪人ならなおさら極楽に行けるのです。』となります。悪人ならなおさら救われる? へんですよね? ふつうは逆ではないでしょうか?法然上人は間違えてしまってみえる、と思ってしまいます。

悪人と聞くと、犯罪者など法律に違反した人を想像されるかもしれませんが、ここでいう悪人とは、仏さまの法(おしえ)に違反した人のことです。
たとえば、今の社会では賞味期限の切れた食品を売ると罪になりますが、捨てても罪にはなりません。仏さまからみると、食べものを捨てるほうが罪となります。そもそも私たちは命を殺生して口に入れています。そして、それを口にせずに捨てたりします。これらは法律では罪にはなりませんが、仏さまから見ればとても悲しいことです。私たちは悪人なのです。他にも、私たちは罪をたくさん犯しています。嘘をついて欺いたり、力や言葉で人を傷つけたりします。そうやって罪を重ねて一生を送ります。ですので、私たちは三途の川を楽には渡れません。閻魔さまのお裁きを必ず受けることになります。子どものころにして今は忘れてしまっている過ちも、大人になってから、正当化して過ちとは思っていないことも、すべての過ちが閻魔さまの浄玻璃の鏡に映し出されます。きっと顔面蒼白、言い訳もまったくできず、只々涙を流してごめんなさい、と反省することになるでしょう。

私は悪人だった!と死んでから気が付いていては遅いのです。生きている今、悪人という自覚をもっていますか?と法然上人は説いていると思います。悪人だという自覚がもてれば、反省をして、今度は良いことをしようとするからです。逆に、善人だと勘違いしている人は、反省もしないし、良いことをもっとしよう!とは思わないでしょう。

もう一度、法然上人の教えをいただいてみましょう。『善人なおもて往生す、いわんや悪人をや』訳してみますと、「善人だと勘違いをして反省しない人でも、仏さまは救ってくれるのですから、悪人と自覚をもって反省して善いことをする人を救わない筈はない」悪人のほうが救われる、というのが納得できますね。

では、生きている今、悪人の自覚をもつためには、どうすればよいでしょうか?

それが、お念仏です。お念仏『南無阿弥陀仏』は、歓喜「ありがとう」でありますが、合わせてもう一つ意味があります。それは懺悔「ごめんなさい」です。「念々に称名(お念仏)して常に懺悔せよ、人よく念仏すれば、仏もまた念じたもう。」
手を合わせて『南無阿弥陀仏』と毎日お称えして、アリガトウとゴメンナサイの両方を仏さまに聞いてもらいながら、暮らしていきましょう。

十念

 

 

このたび、当布教師会より法然上人800回大遠忌記念事業として法話集「法然さまからのお手紙とお歌」を出版いたしました。


法然さまが「黒田の聖人(ひじり)」に宛てた一紙小消息を、管長猊下お手ずから、わかりやすく現代の言葉に置き換えていただき、それを一区切りづつ布教師会の布教師がお説教として書き下ろしました。 また法然さまの代表的なお歌を八首取り上げ、それをテーマとしたお説教も掲載しております。

この本のお求めは、≪総本山誓願寺公式サイト「出版書籍のご案内」ページ≫ よりご購入いただけます。(一部1,000円税込/送料別)


 


 

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